「手塚治虫と私」

手塚愛を語る!
「手塚治虫展」開催に際し、長年にわたる手塚ファンをはじめ、各界で活躍されている方々から手塚治虫に対するコメントが寄せられました。以下にそのお声を掲載させていただきます。立場も年代も異なる方々の手塚に対する想いをご一読ください。

「手塚治虫と私」(掲載50音順)

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 石川慶
 映画監督
 映画の現場で、たまに手塚作品一度も読んだことがないという若いスタッフに会うことがあります。もちろん今話題になっている漫画はきちんと読んでいる子たちなので、興味はあるみたいなんです。それを聞いて、怒り心頭な大人たちが多いんだけど、どちらかといえば僕は「羨ましいなあ」と思うんです。だって、これから白紙の状態であの手塚作品の数々を読めるんですから。今あるどの漫画と比べても、最高にエンタメで、最高に心に残る物語を味わえるなんて。そう思いながら、定期的に手塚作品を読み返しています。
 伊東 誠
 中日新聞豊橋総局長

 1993年、秋、東京拘置所。公共工事にからみ、ゼネコンから多額の金が渡っていたとして仙台市長や宮城県知事、茨城県知事らが相次いで逮捕された「ゼネコン汚職事件」。容疑者がどんな供述をしているかを、接見に来る弁護士に取材するため、3か月以上、毎日通い詰めた。
 朝8時から夕方まで。取材対象となる弁護士は一日にせいぜい、2~3人。私も、各社の記者はひたすら、待ち続ける日々だった。虫けらのようにあしらわれることもあった。
   待っている時間がもったいない。仲が良い数人の記者で「ブラック・ジャック」の文庫本全巻を分担して買い、ひたすら回し読みした。ブラック・ジャックは「赤ひげ」ではない。高額な治療費をふっかける。貧しい人も同様に。それは患者の覚悟を図ろうとしているから。「それでも払います」。必死に誓うように言葉をつなぐ患者の家族。
    そしてブラック・ジャックは奇跡の手術で患者の命救う。この展開がぐっと胸に迫る。  収賄で逮捕された容疑者は、安直に多額の金を受け取っている。そこには、覚悟もなければ、倫理観もない。記者としての正義感を取り戻すかのような気持ちで読みふけっていた。 一つの話を読み終わる。「ふーっ」。余韻に浸りながら、拘置所の壁を見つめた。ハッピーエンドには終わらない。だから、余韻もさまざま。それがいい。

 イトウユウ
 京都精華大学(特任准教授)/京都精華大学国際マンガ研究センター(研究員)

 手塚治虫が亡くなったことが、マンガ界に衝撃を与えたのは言うまでもないが、マンガを「悪書」とすら思っていた当時の一般社会に、実はすごい「文化」かもしれない、と考え直させるきっかけを作ったことも忘れてはいけない。亡くなった次の年の1990年に、国立の美術館で回顧展が開催されたことは、特に大きなインパクトを与えた。今では、公立のミュージアムでマンガ展が開催されるのは珍しくないが、当時は賛否両論だった。
 同時期、夏目房之介らが、手塚作品のマンガ表現をあらためて分析をし始める。その緻密な表現分析は、マンガを、小説や映画同様、学術的な「研究」の対象に押し上げるきっかけとなった。その後、「日本マンガ学会」ができ、全国の大学でマジメにマンガが研究されている。ぼくがマンガ研究者を名乗り、大学で教鞭と執っていられるのも、手塚治虫のおかげ、と言って過言ではない。

 上野修平
 成田記念病院 消化器外科 
 誰もが知っている天才外科医、ブラック・ジャック。医師でもある手塚治虫だからこその医学的なリアリティと、現実にはありえない大胆な展開が我々を魅了する。小学生の頃に父の書斎で夢中になって読んでいた事を思い出す。なかでも「病院ジャック」は外科医として働く今でも頭に浮かぶ。手術中に犯人に脅され手を止めざるをえない状態でも冷静に患部を詳細に記憶し、爆破による停電の中で手術を成功させる話だ。
術中の臨機応変さも必要であるが、術前に詳細に患者の状態を把握する事で、よりいい手術ができる。暗闇で手術する事などないが、なにか通じるものがある気がする。独特の世界観と、人としても医師としても心揺さぶられる名言から、人間の生き方を考えさせられる不朽の名作だと思う。
 内浦有美
 株式会社うちうら(ばったり堂)代表取締役/豊橋市教育委員会委員
 どろろが、可愛い。とにかく可愛い。妖怪が蠢き、男どもが剣を抜く物語の中で、ひときわ輝きを放つ。
 小さな頃読んだ「どろろ」は、兎角、暗くて不気味で、正直手塚作品の中では好きになれなかった。本作は、地獄堂で父と魔物たちによって交わされた約束の代償に身体の四十八ヶ所を失った状態で生まれてきた「百鬼丸」が、泥棒の子ども「どろろ」と共に、妖怪から自身の身体を取り戻すための戦いの旅路を描いている。ストーリーからして陰湿である。
 しかし、どうだろう。今、中年に差し掛かった自身があらためて出会った「どろろ」は、こんなにも面白い。人間の怨念や欲の結晶として姿をあらわす妖怪、苦悩に苛まれながらも斬りまくる百鬼丸、生命感あふれ表情豊かなどろろ。
 今回の展覧会で、原画のなかに生きる彼らに出会えることを心から楽しみにしている。
 太田 敦也
 プロバスケットボールクラブ 「三遠ネオフェニックス」選手(背番号8)

 小学生のころには「火の鳥」「ブッダ」を読み、中学生の時に読んだ「ブラック・ジャック」が特に印象に残っています。無免許ながらどんな医師よりも優しく患者想いだと感じ、夢中になって読んでいました。
 プロバスケットボール選手になり、Bリーグ発足前の「bjリーグ」時代に「ブラック・ジャック」とのコラボレーションで「ピノコ」グッズなどの販売があり、大人になっても縁を感じていました。時代が変わる中でも、変わらず多くの人たちに影響を与えられる作品は本当に凄いと思いますし、私も選手としてそのような存在になれたらどれだけ凄いことなのだろうと考えさせられました。
素晴らしい作品が沢山あるので、子どもたちだけでなく大人の方にもまた読んでいただきたいです。

 大林正智
 「豊橋市まちなか図書館」開館準備室
 「アブトル・ダムラル・オムニス・ノムニス・ベル・エス・ホリマクわれとともにきたりわれとともに滅ぶべし」
 これは手塚治虫作品『三つ目がとおる』中で何度も使われる呪文である。『三つ目がとおる』に出会ったのは小学生の頃、場所は歯科医院の待合室だった。超古代文明、超能力を題材にした伝奇ロマンに引きずり込まれ、診察待ちの間だけでなく、診察が終わった後もいつまでも読んでいた。迷惑な患者だが、歯科医院側も何となく大目に見ていてくれたような気がする。
 主人公の写楽保介は中学2年生としてはちょっと純真でかなり頼りない少年だが、額に貼られたバンソウコをはがすとそこに「第三の目」があり、天才的な知能と超能力を発揮する。その変身ぶりがよかった。小学生の私は、宿題が捗らないとき、跳び箱がうまく跳べないとき、額に手をやって、バンソウコがはがれないか、第三の目が現れてすべてが思い通りに運ばないか、と空想するが、もちろんバンソウコは最初から存在せず、自分が三つ目族の末裔ではないということを思い知るのだった。大人になった現在でも、時おり額に手をやって確かめるのだが、第三の目は今のところ開いていない。
 加藤訓子
 パーカッショニスト/豊橋特別ふるさと大使 
 この度は、豊橋市美術博物館におきまして手塚治虫展を開催されるとのこと、誠におめでとうございます。
我々の世代にとって、なんといっても鉄腕アトム!=手塚治虫の名を知らない人はいないでしょう。そして学生時代「火の鳥」「アドルフに告ぐ」など、夢中になって読んだのを思いおこします。当時は「こんな未来がくるのかな?」と驚きましたが、今本当に!手塚治虫=未来と言っても過言ではないでしょう。
 私が次世代演奏家の育成事業において取り上げているヤニス・クセナキスという作曲家がいます。この20世紀の偉大な作曲家は、音楽家であると同時に建築家、数学者でもあり、常に未来を見据えていました。手塚がAI やアンドロイドの居る近未来を描いたように、クセナキスも数学を音楽へ応用したり、作曲用コンピューター「UPIC」をいち早く開発していました。人間の可能性を最も尊重しているところに、二人の稀有な作家の共通な未来的思想を感じます。
 古関正裕
 音楽・著述家/ライブユニット「喜多三」主宰
 手塚治虫は大尊敬する天才だ。私が幼稚園から小学校に上がるころ、初めて手塚治虫の漫画を読んだ。最初に読んだのが何だったか、鉄腕アトムだったのかも知れない。単行本で読んだ最初は多分「新宝島」。あと題名は覚えていないが、蟻の世界を描いた漫画。女王蟻と兵隊蟻などの話を、最初は人間社会の昔話と思わせて、最後は蟻の世界の話だよ、というオチがつく話。これらの本は大事にとっておいたのに、いつ処分してしまったのか、今になって後悔している。私の好きなのは「ジャングル大帝」、「リボンの騎士」、「ブラック・ジャック」など。虫プロは何故ディズニーに対し「ライオンキング」が「ジャングル大帝」のパクリであることに抗議しなかったのか、少なくとも「Inspired by Osamu Tezuka’s Great King Of Jungle」くらいのクレジットを入れさせる交渉をすべきであったと思う。「ライオンキング」を見聞きするたびに腹立たしく思っている。
 クジラ飛行机
 プログラマー・ライター/「くじらはんど」代表
 手塚作品がすごいのは、自分ではその漫画を買ったことがないのに、ふらりと寄った喫茶店や旅先の温泉宿などで、かなりの数の作品を読んでいることだ。(ファンなのにスミマセン。)そして、その魅力的なキャラクターたちが織りなす物語は、豊橋で読んでも豊橋を離れて読んでも面白い。特に、「火の鳥』や『ブラック・ジャック』は、物語の持つ「力」により時が流れても色褪せることなく強烈な印象を記憶に残している。読者を夢中にする新鮮で鮮烈な作品は、これからも多くの人の心に刻まれ、影響を与えていくことだろう。
 黒野有一郎
 大豊商店街理事長/建築家/一級建築士事務所「建築クロノ」代表
 漫画から学ぶということを僕は手塚作品から知った。ブッダ、アドルフに告ぐ、火 の鳥、、、ウチには母が買って来た手塚漫画があり、”読んでもいい漫画”という暗にルールのようなものがあって、僕にとっての手塚治虫は、夏休みのTVアニメの再放送(リボンの騎士やジャングル大帝が放送されていた)よりは、ウチにあった漫画本の印象のほうが強い。父は、専ら文学のひとで漫画を手に取ることはなかったので、漫画は、僕たち兄弟と母の共感の証しのようなものだった。これもひとつの教育だったとすれば、手塚治虫からずいぶん多くのことを学んだと思う。
 小池信純
 鉄腕アトムコレクター/愛知県女性総合センター「ウィルあいち」所長
 「アトムは天使だ!手塚作品はバイブルだ!」
 1960年生まれの僕が初めて出会った手塚作品は、1963年に始まった日本初の連続テレビアニメーションの「鉄腕アトム」です。アトムは決して「正義の味方」ではなく「道徳心」を持った天使のようなロボット少年、僕はそんなピュアなアトムの虜になってしまいました。
 今でも家には1枚の貴重な写真が残っています。1967年、僕が7歳の時に家族で行った京都・清水寺での写真です。そこにはアトムの水筒を掛けて得意満面にポーズをとっている僕がいます。そう、僕は53年前から鉄腕アトムコレクターだったのです。当時は身の回りのモノを全てアトムグッズで揃えていました。弁当箱や箸入れ、コップやスプーン、ハンカチに手袋、筆箱や鉛筆や定規、トランプやカルタ、貯金箱からプラモデルまで、何から何までアトムでした。僕のアトムコレクション人生は、たったひとつの水筒から始まったのです。
そして中学時代には初めて「火の鳥」に触れ、手塚作品のスケールの大きさと発想の奥深さに感嘆し、その影響で大学時代には自ら漫画を描き、講談社「ヤングマガジン」月間漫画新人賞に入選。物語上のアトムの誕生日を目前にした2002年には文芸社から、アトムへの思いを綴ったエッセイ「アトム・ジェネレーション」を出版しました。その後、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ等で紹介され、2006年以降は日本全国各地で60回以上のコレクション展を開催。2020年の今では、数えきれないほどのたくさんのアトムたちに囲まれて暮らしています。様々な世代の人たち、様々な国の人たちが僕のアトムコレクションを見て、少しでも手塚作品に触れるきっかけとなればこんな嬉しいことはありません。僕はいつもそんな思いでアトムたちを飾っています。
 私たちはどんな時もアトムのような「道徳心」で物事を判断しなければならないと思うのです。そして現在、世界の権力者たちに最も欠けているのがこの「道徳心」だと思います。「正義」は国それぞれですが、「道徳心」は世界共通だと信じています。手塚先生が生前、地球の行く末を危惧し描かれた膨大な作品と貴重なメッセージは、今後、人類のバイブルになることでしょう。

 

この記事は 2020年09月23日に更新されました。

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