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Author Archives: admin_toyobihaku
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豊橋祇園祭でよく知られる吉田神社は、平安時代の天治元年(1124)の創建と伝えられており、多くの文化財が所蔵されています。このたび、令和 3年 4月20日に同社所蔵品のうち、 1件を市指定民俗文化財、3件を市指定有形文化財に指定しました。なお、今回の指定により本市に所在する指定・登録文化財は合計で 135件となります。
市指定民俗文化財
・吉田神社旧式祭礼図絵馬 附 寄付人名記
指定区分:有形民俗文化財 時期:明治23年(1890)
市指定有形文化財
・獅子頭(御頭様)
指定区分:彫刻 時期:南北朝~室町時代
・鬼面
指定区分:彫刻 時期:室町時代頃
・吉田神社神輿棟札 附 吉田神社神輿棟札写
指定区分:歴史資料
時期:天文16年(1547)、寛永13年(1636)、元禄13年(1700)、嘉永 5年(1852)、
附は明治43年(1910)
吉田神社はかつて天王社・牛頭天王・吉田天王社と呼ばれた神社で、「天王御縁起」(個人蔵)によれば平安時代の天治元年(1124)の創建とされ、治承 2年(1178)に源頼朝が家臣を代参させたといわれます。また、天文16年には今川義元より神輿が寄進されています。江戸時代には幕府より社領30石を与えられ、吉田藩の援助により開催された祭礼の花火は『東海道名所図会』などで紹介され全国的に知られていました。
《指定記念一般公開》
日時: 5月11日(火)~ 5月23日(日)
会場:豊橋市美術博物館
※「吉田神社旧式祭礼図絵馬」はパネル展示。
豊橋市文化財センターでは、
「令和3年度文化財サポーター」として活動していただく方を募集します。
歴史が好き。文化が好き。新しい生きがいを見つけたい。ボランティア活動をしてみたい。
そして、歴史と文化財を守り、伝えたい。そんな方のご応募をお待ちしています。
詳しくは、下記リンクの募集要項(PDF)をご覧ください。
《 申込み期間:5月1日(土)~5月31日(月) 》
令和3年度文化財サポーター募集要項 (PDF)
令和3年度文化財サポーター申込書 (PDF)
令和3年度文化財サポーター申込書
※「文化財サポーター」は、豊橋市文化財センターが認定するボランティアで、豊橋市域の歴史や文化財について、関心を持ち学び・伝える活動を行います。
豊橋市美術博物館改修整備事業実施方針等を公表します。
下記をクリックしてください。
今年度も多彩な内容の行事を予定しています。各行事は感染症対策を行った上で開催しますが、状況により内容の変更、中止や延期をする可能性があります。皆さまのご理解とご協力をお願いします。
3月20日(土)に、吉田城址確認調査の現場公開を開催しました。当日はおだやかな陽気に恵まれ、550人ものみなさまにご参加いただきました。ありがとうございました。
「発掘現場公開資料」を下記からダウンロードできます。なお、スタンプラリーは現場公開の当日のみ開催したものです。ご注意ください。
豊橋市文化財センターでは、吉田城址の保存と活用に向けた調査を継続して行っています。今年度は、昨年度からの継続で千貫櫓台、新規で本丸南多門の堀底の調査を行いました。このうち、南多門の堀に築かれた石垣は、近世初頭の築造であり、城内でも最大級の高さと確認できました。
調査の成果を市民の皆さんに知っていただくため、調査現場の公開を下記の日時に開催します。
◎調査成果の一般公開
と き:令和3年3月20日(土) ※少雨決行
10時00~11時30分、13時30分~15時00分(随時受付)
受 付:豊橋公園内本丸広場
内 容:令和2年度に行った豊橋公園内での調査成果を、スタンプラリー形式で巡ります。
その他:スタンプラリーの景品あり。(午前と午後各200部、なくなり次第終了)
※感染症の拡散防止対策を行ったうえ開催します。
≪ 調査成果のポイント ≫
①本丸正面入口に築かれた場内最大級の高石垣
今回の調査により、南多門付近の築城当初の堀底は現在より約3m深かったと確認しました。このため、南多門付近の堀に築かれた石垣の高さが約12.6mと判明し、鉄櫓と並ぶ規模だったことが確認できました。城郭の最重要部のひとつである本丸入口の守りを強固にし、かつ荘厳に飾る目的があったと考えられます。 ※鉄櫓(くろがねやぐら)下石垣の高さは約12.7m。
②近世初頭の城郭改修をものがたる石垣
調査での出土遺物、石材の種類や加工技術から、この石垣は近世初頭の城郭整備を行った際に築かれた石垣だと思われます。当時の吉田藩主であった松平忠利は、江戸城や名古屋城の建設に関わった築城の名手でした。本丸御殿の建設に合わせ、整備された石垣と考えられます。また、それ以前の城主である池田照政(輝政)によって整備された時の石垣の可能性もあります。
≪ 調査現場のみどころ ≫
①堀底に厚く積もった土砂の様子
江戸時代を通して、堀底は丁寧に清掃されていたようです。しかしながら、安政地震(1854年)以降は堀の管理が行われなかったようです。特に明治から昭和時代を中心に不要な土砂やゴミの捨て場とされたことにより、現在の堀底は江戸時代と比べ約3m高くなっています。
②発掘された2種類の石垣
本丸の南多門付近では、堀の斜面全体を覆う高石垣と、斜面の下部を強固にするために築かれた腰巻(こしまき)石垣を見ることができます。高石垣の高さは約12.6mで、腰巻石垣は高さ約2.1mであり、高さのほか石積み方法の違いを見ることもできます。