平川敏夫

HIRAKAWA,Toshio 1924~ 1924年、宝飯郡小坂井町に生まれた平川は京都の稲石着尺図案塾で日本画の基礎的な技術を学びますが、開戦のためまもなく帰郷し、中村正義との出会いによって本格的に日本画の制作を始めるようになります。1950年には正義の薦めで第3回創造美術展に出品し、以後、創造美術が新制作派協会と合併して新制作協会日本画部となった後も同展に出品を続けます。 初期の作風は素朴派を思わせる幻想的な表現で漁村や夜の庭園、水辺の景色などを描き、第18回新制作展では《月の庭》など庭四題が新作家賞を受賞。やがて画面の色調は褐色系に寄り、陰影を強調した線でフォルムを切り抜く新たな表現様式へと踏み込むようになります。 1953年、当地方を13号台風が襲い、家屋のみならず樹林にも大きな被害をもたらしましたが、翌年にはあらたな芽吹きがみられ、そのたくましい生命力に触発されて樹々のシリーズが生み出されました。当初は冬枯れの樹枝が波打つ様を描いていましたが、やがて燃えさかる炎と化したかのような樹枝を朱で描いたシリーズに至り、生命力の称揚は頂点に達しました。また1970年代からはこれらの樹木のなかに古寺の塔を配した連作を発表。「塔は樹の魂」として画面のなかで象徴的な位置を占めます。 1980年代より画面から色彩が影を潜めるようになり、墨の濃淡を主体とした画境に到達します。従来の水墨画と一線を画すのは染色を思わせる白抜きの画法によるもので、深閑とした雪庭を描く《雪后閑庭》、紅葉の葉が幾層にも重なり合い、無彩であるにもかかわらず装飾美にあふれる《那谷寺仙境》などをあらわしました。 1990年、豊橋市美術博物館において初の回顧展「平川敏夫展」を開催。1997年には岐阜県美術館で「華麗なる変遷-平川敏夫展」が開催されました。

収蔵作品

  • 《陶土》1958(昭和33)年

    《陶土》1958(昭和33)年

  • 《雪后閑庭》1985(昭和60)年

    《雪后閑庭》1985(昭和60)年

  • 《椿樹》

    《椿樹》

  • 《峨々凍林》1961(昭和36)年

    《峨々凍林》1961(昭和36)年

略年譜

大正13年 宝飯郡小坂井町に生まれる。 昭和15年 小坂井東尋常高等小学校を卒業。京都稲石着尺図案塾に入門するが、翌年開戦のため帰郷。 昭和18年 愛知県農林技手となる(~22年)。 昭和22年 我妻碧宇主宰の新日本画研究会で中村正義らとともに学ぶ。 昭和25年 第3回創造美術展に初入選。翌年、中村正義・星野眞吾らと画塾〈中日美術教室〉をはじめる。同年、創造美術が新制作派協会と合併して新制作協会日本画部となるが、以後同展に出品を続ける。 昭和29年 新制作協会展で新作家賞を受賞(33年、37年も受賞)。 昭和38年 新制作協会会員に推挙されるほか、日本国際アーチスト協会展、現代日本美術展、日本国際美術展、ジャパン・アート・フェスティバルなどに出品。 昭和48年 パリで個展開催。翌年、新制作協会日本画部が創画会として独立すると、同会会員となる。 昭和55年 「現代日本美術の展望-日本画」展(富山県立近代美術館)に出品。翌年、中日文化賞を受賞。 昭和58年 愛知県教育委員会文化功労者表彰を受ける。 昭和60年 東海テレビ文化賞を受賞。 昭和62年 豊橋文化賞を受賞。翌年、愛知県文化功労者表彰を受ける。「20世紀絵画の展開」展(名古屋市美術館)に出品。 平成2年 現代日本画巨匠展(茨城県近代美術館)、「日本画・現代の視角-その模索と実験」展(新潟市美術館)に出品。平川敏夫展(豊橋市美術博物館)開催。翌年、愛知県文化選奨選考委員をつとめる。 平成4年 「墨の再発見」展(岐阜県美術館)に出品。 平成6年 日本画家五人展(豊川・桜ヶ丘ミュージアム)に出品。翌年、創画会運営委員長、全日本水墨画展審査委員をつとめる。 平成9年 華麗なる変遷-平川敏夫展(岐阜県立美術館)開催。

この記事は 2014年02月06日に更新されました。

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