吉田城について

  • 【豊橋市指定史跡】吉田城址(令和4年3月30日指定)
  • 所在地:豊橋市今橋町 他
  • 交通アクセス:豊鉄市内線(市電)「豊橋公園前」下車、徒歩3分

戦国時代に戦乱の最前線基地として生まれ、やがて東海道の要となった吉田城をご案内します。 吉田城の歴史は、永正2年(1505)、牧野古白により今橋城が築かれたことに始まります。 戦国時代、東三河の要であった今橋城は、激しい攻防が繰り返されるなか、名称も吉田城と改められました。永禄7年(1564)には松平(徳川)家康が吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置きました。 天正18年(1590)、家康の関東移封によって池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いましたが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後姫路に所替えになりました。 江戸時代には東海道の要衝として譜代大名が在城しましたが、財政的要因のため完全に整備されないまま明治を迎えました。 吉田城パンフレットのダウンロード
明治初年の大手門と本丸付近(豊川対岸からのぞむ)

明治初年の大手門と本丸付近(豊川対岸からのぞむ)

吉田城の歴代城主

吉田城の城主は牧野古白に始まり、その後、戦国時代を経て、徳川家康の三河統一による酒井忠次の配置、家康の関東移封による池田輝政の入城と続きます。 姫路城築城でも有名な輝政により、現在みられる吉田城の基礎が造られました。 江戸幕府成立後は9家22代の譜代大名が支配しましたが、前期は転封が激しく、中期以降は松平(大河内)氏が城主となりました。
城主名石高 入封襲封年事由  
牧野古白(左衛門成時)明応5年(1496)または永正2年(1505)
戸田金七郎宣成永正3年(1506)
牧野成三・信成永正16年(1519)
大橋和尚天文5年(1536)今川氏の城代
戸田金七郎宣成天文6年(1537)
伊東元実
後に大原資良(小原鎮実)
天文15年(1546)今川氏の城代
酒井忠次永禄8年(1565)徳川氏の城代
酒井家次天正16年(1588)相 続
池田輝政15万2千石天正18年(1590)
松平家清(竹谷)3万石慶長6年(1601)武蔵国八幡山より
松平忠清(〃) 〃慶長15年(1610)相 続
松平忠利(深溝)3万石慶長17年(1612)三河国深溝より
松平忠房(〃) 〃寛永9年(1632)相 続
水野忠清4万5千石寛永9年(1632)三河国刈谷より
水野忠善4万5千石寛永19年(1642)駿河国田中より
小笠原忠知4万5千石正保2年(1645)豊後国杵築より
小笠原長矩4万石寛文3年(1663)相 続
小笠原長祐 〃延宝6年(1678) 〃
小笠原長重 〃元禄3年(1690) 〃
久世重之5万石元禄10年(1697)丹波国亀山より
牧野成春8万石宝永2年(1705)下総国関宿より
牧野成央 〃宝永4年(1707)相 続
松平信祝(大河内)7万石正徳2年(1712)下総国古河より
松平資訓(本庄)7万石享保14年(1729)遠江国浜松より
松平信復(大河内)7万石寛延2年(1749)遠江国浜松より
松平信礼(〃) 〃明和5年(1768)相 続
松平信明(〃) 〃明和7年(1770) 〃
松平信順(〃) 〃文化14年(1817) 〃
松平信宝(〃) 〃天保13年(1842) 〃
松平信璋(〃) 〃弘化元年(1844) 〃
松平信古(〃) 〃嘉永2年(1849) 〃

刻印のある石垣

吉田城の石垣のうち、隅櫓の横から豊川へ降りて行く階段付近や本丸南側の入り口の石の中にはいろいろな印が彫られているものがあります。これが「石垣刻印」と呼ばれているもので、築城工事を分担した大名や家臣の印であるといわれ60個近くが確認されています。 これら刻印のある石をはじめとする花崗岩は名古屋城の残石を転用したものです。
石垣刻印(左:二引両・土佐カナ書・百々の略、右:裏銭)

石垣刻印(左:二引両・土佐カナ書・百々の略、右:裏銭)

近世吉田城の縄張り

吉田城の縄張りは豊川と朝倉川を背に本丸を基点として二の丸・三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後堅固の城」というものです。ただし、河川を背にし、本丸を直接攻撃されやすい弱点もあるため、本丸背後に腰曲輪を設け、石垣も高くしています。 城域は、東は現在の飽海町から旭町、南は曲尺手町から呉服町、西は関屋町に及ぶ広大なものでした。

吉田城の発掘調査

遺跡(埋蔵文化財包蔵地)としての吉田城は、城郭と周意の武家屋敷の範囲までが含まれております。市街地にある遺跡ということもあり、これまで開発に伴う緊急発掘調査が数十次にわたって実施されてており、わずかずつではありますが、戦国時代から江戸時代にかけての吉田城の姿が明らかになっています。
吉田藩士屋敷図

吉田藩士屋敷図

吉田城の発掘調査

遺跡(埋蔵文化財包蔵地)としての吉田城は、城郭と周意の武家屋敷の範囲までが含まれております。市街地にある遺跡ということもあり、これまで開発に伴う緊急発掘調査が数十次にわたって実施されてており、わずかずつではありますが、戦国時代から江戸時代にかけての吉田城の姿が明らかになっています。

吉田城関連の収蔵資料

考古資料

歴史資料

この記事は 2024年05月20日に更新されました。

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